合わなくてはならない切羽詰

この趣味の先輩Aさんは、わたしより少し年上と思われ、環境も普通なので意識も革新的でもなんでもなく、昔風なんだろう。
ずっぽり昭和の人。
だから、わたしが彼の「居場所作り」アドバイスに違和感を覚えたのだろう、と、今初めて理解した收細毛孔
居場所作りにおいて、わたしは彼の何十年も先輩になる。
何を今更感がある。
とは言え、仕事をしない選択肢もわたしにはあった。
ということは、わたしは昔の価値観、ライフスタイルを採択したため、何十年も前に趣味を一通りかじることが出来たのだろう。
(しかしながら、仕事をしていても、趣味や仕事を離れた世界の中から選択して楽しんでいる人はいた)
余裕が無い人もいた。
仕事と趣味。難しい選択。
仕事が趣味、なんていう人もいる。

リタイアした男性の皆さん、多かれ少なかれ、その後の自分の人生と向き合うことになる。
女性もリタイア後は人生に向かうのだろうけれど、「女性は家庭」という古い時代も半分生きていたので、男性ほど、リタイヤと共に、無職の素の自分に向き合わなくてはならない切羽詰まった思いは強くないように思う。
温度差は人それぞれかも知れないが。


さて、夫源病。ふげんびょう。
最近の病気らしい。
西洋の地で青い目の奥さんと夫婦になって、一度も離婚したことがない日本男性。
この男性なら奥さんは夫源病にはならないだろう。稀有減 皮下脂肪
日本在住で、日本人夫と日本人妻でも離婚は増加している。
夫が家に居ると、妻が病気になるなんて、凄くないか?
言葉や行動で感じたことを示すのではなく、身体、体調、発病で示す。
学校に行く時間になると発熱する学生さんみたいなものか。

趣味仲間の老後男性たちも、「オトコは家に居てもなあ、、、」とおっしゃる。
後半の「、、、」の行間を読む。
じーっとして微動だに動かないでTVなどを見ていると、「掃除の一つもしたら?」と、妻の視線に無言のメッセージを感じるのだろう。
「ごはん、まだあ?」などと言おうものなら鬼の形相(だろう)。
お腹が空いても、ご飯の時間が過ぎていても、じっと待つ。
そんな感じを想像する。
だから、居場所が必要なのだ。
地域にも根を下ろしてこなかった、仕事一筋の生活から脱却しないと、居場所がない。
家に居場所を作るにも、ルームシェア的な、妥協の産物のような居場所であり、心安らげるものかどうか。

だが、まだまだ展開はある。
どちらかが弱って病気になって、介護が必要になる時が来る。
助け合わなければならない。
その時には、感謝される。
が、介護される側になると、それまでの家庭内労働チャージ、労務預金がないと、イジワルされる可能性がないとも言えない。
江戸の仇を長崎で打たれる。
趣味の居場所作りばかりに明け暮れていては、やがて来る将来も見据えないと泣きを見る。
元気なうちに、出来ることをする。
出来ることは、やりたいことばかりではない濕疹奶粉推介
すべきこともしておかなければ、後悔が残る時が来ないとも限らない。

家の中に居場所がないからと外ばかりに目を向けず、家庭にはある程度の居場所も作っておくべきだ。
それには意識と努力が必要だ。
趣味の先輩Aさんも、外の居場所作りのアドバイスも結構だが、ご自分の足元も見つめ直すのも今後の展開には重要だ。
だが、わたしは、他人の家庭に土足でズカズカ踏み込むようなデリカシーのない無神経なことをする気はない。
押し付けがましい自分流考えや意見も言いたくない。
なので、静かに微笑んでいる。

落とし穴や罠が見抜

ちなみに、
SNSの影響、効果は、良い面も悪い面もある。
何ごとも両面ある。
社会経験の少ない未成年者や若者、高齢者には、落とし穴や罠が見抜けない皮秒去斑

しかし、、、
世の中には驚くほど無知な人がいる。
ではあるが、社会のことがわかっていて、社会で生活できていれば、少々無知でも構わない。
無知と無教養は、少し違う。
無教養でも生きていける。
無知は、自分を危険な目に陥れる場合がある。
よく言われていることだが、周りに信頼できる大人がいるかどうか。
1番身近なのは親だ。
子は親を選ぶことは出来ないから、著しくハズレだった場合は、いち早く自立するしかない。
かえってそれがプラスに作用することもあるから、結果的には何が良いのかよくわからない。

わたしの精神は70%ぐらいは親の影響で成り立つ。(アンチも含め)
時代の色も追加される。
自分で加工したものはあるのか?
姑や姻戚関係の人々を見て学んだことも多い激光脫疣
ぶ厚い頑丈な鉄筋コンクリートのBOXの中で、小さな天窓から明かりを取り入れて生きてきた(とたぶん思う)。

ブルース?リーの言葉がNHKテレビ番組で紹介されていた。
Be water.
友よ、水になれ。

(水は、どんな形にもなるが、強いパワーを持つ)
短いこの言葉脫毛
響いた。

老老介護はもっと大変だ

ちなみに、この季節、年賀状自体の喪中ハガキが次々来る。
まあ皆さん、ハガキのお父さん、お母さん、ご長寿で、天寿を全うされている。
80代は若い、90代中頃が多く、100歳を超えて亡くなる方も少なくない如何移民加拿大
と、毎年そう思っているが、年々強く思うようになった。
少子高齢化社会なんだと実感する。
我々高齢者は、まだ更に高齢の親の世話をしなければならない。
親子で一世代違うならまだしも、同世代の超高齢配偶者を介護する老老介護はもっと大変だ。

話は変わるが。
人間の苦には、病、貧困、戦争、災害の他に、老というのもある。
が、長生きすると皆、老いるわけで、それは避けられない「苦」の中に入るのか???

先週金曜日、NHK TV番組「アナザーストーリー」で豊田商事を取り扱っていた。
わたしの世代でもある会長(故人)。
暗い沼に入り込んだ気分になった。
宗教もそうだ。
弱い人のこころの隙に付け入る長者助聽器價錢

小2男児が、こっぴどく大人に叱られたとしても、環境的に普通の明るい温かい家庭に育っているなら、別に日常の一コマの断片だが、
親が離婚して親戚の家に預けられていたとしたら、しかも経済的に援助もなく、親戚も苦しい状態だとしたら、空気感も違ってくるだろう。
昔と今では価値観も変わり、時代の色も加味される。
だが、愛情や余裕があるのと、ないのとでは、雲泥の差である。
逃げ場があるか、ないか。
追い詰められるのは良くない。

本人の資質にもよるだろうが、犯罪に手を染める人はある程度の共通点がある。
同情の余地がある不幸な環境、背景。
犯罪者と、普通の家庭を同じ土俵で論じるのはお門違いではあるが、一歩、間違えると両者は背中合わせに接している。
いつ、ひょんなことで、幸せが不幸にどんでん返しになるか、可能性はゼロではない。
運、不運もあるだろう。
しかしながら、、、番組「アナザーストーリー」を見ていると気分が暗く落ち込む。

ごくごくどこにでもある普通の幸せが、壊れていくのは恐怖だ。
宗教にすがりつきたくなるのも、わからないでもない。
が、、、。

筆が、どんどん暗い方向に進んでいる。
別の違う方向に転換したい。
筆は気ままで好き勝手に進み、わたしを困らせる冰箱價格

言葉を交わすようになった

わたしは、努力してそうなったわけではないのだが、たまたま結果的に、ドロドロ沼にはまらない。

30代前半のある日。
語学研修という大義名分(笑ってしまう中身、実力)で、アメリカに単身、2週間滞在したことがあるMedilase 脫毛
そこでは、日本語をシャットアウトするために日本人とは絶対に仲良しにはならないゾ!と固く決め、語学研修同級生との間にバリアを張っていた。
クラスでは誰とも話さず、ホームステイ先の女性と話していた。
授業は午前中に終わり、午後は周辺をうろうろ。日本人ではないようにも見えたようだ。
スーパーマーケットのコットン衣料などをちょこちょこ買ったりして、帰国時にはスーツケースの荷物は明らかに増えていた。

それは良いとして。
ホームステイ先の女性は独身キャリアウーマンだったため、どこかに連れて行ってもらうのは、週末だけ。
恋人の家や、家族で住むお友達の家でのパーティなどに、同行させてもらった。
それは良いとして。
研修クラスでは、後半になると、バリアに異変が起きた。
わたしが疲れてきたのか??

緊張の糸を張り続けられなくなったのか、よくわからないが、日本企業に在籍する、企業から研修に派遣されている日本人男性と言葉を交わすようになった。
アフターレッスンに、一緒に行動したりした。
急激な接近、展開ではなかった。
帰国後にも、グリーティングカードをもらった。
お互い、悪い印象は持っていなかった。
が、今思えば、明らかに行動や気持ちをセーブしていたhifu 療程

わたしは、日本に残した家族のことを思って頑張って自制したわけではない。
自然体。
先方の男性もおそらく自然体だろう。
外国での一時のアバンチュールを楽しもうと思えば出来たのかも知れないが、そんなことは思いつかなかった。
相手も、企業から派遣された研修の身、日本での家族もある。
お互い、薄っすら、その先には何かがあったかも知れないが、二人の繋がりは淡い思い出として残った。
どちらかが、ほんの少しでも動くと何かが起こったとしても、その時のタイミングは、そういう時の縁ではなかった。
ああ、良かった。
ドロドロにならなくて。

情熱家の人や、日常を離れた異国での精神高揚から海外で知り合って結婚する人もいる。
お互い独身なら何の問題もない。
離婚して再婚したり、山あり谷ありの人もいる。
わたしには、自然体で、その道はない。
ドロドロは無意識に避けているのだろうか。
→ドロドロ回避本能。
が、偶然、ひょんなことでドロドロに、なんてこともない膠原自生

わたし自身に関する考察。
自分のエネルギーはプラスに向けて使う傾向にある。
仮にマイナス時期があったとしても、次のプラスに向けての逆噴射チャージ期。
飛び上がるために、身体を屈める(かがめる)、それと同じ。
あえてマイナスの海には飛び込まない。

ではブログは?
プラスでもないのに、延々とやっている。
これは駆け引きなしの、他からの見返りを求めない、たんなる趣味。
じつに、あっさりしている。

皆さまではないのだろ

一昨日は、人身事故に振り回された。
事故が起きてから、Twitterなどで皆さんの写真や情報がすぐあがってきて、状況を把握できた。
が、何時何分に復旧するのかは、JRのみが知ることなので、情報はリアルタイムでは外の一般の皆さんからは得られなかった牙痛原因

今日、時間を摺り合わせてみると、事故が起こった瞬間の時間には、わたしはその駅の直近の私鉄駅を私鉄電車で通っていた。
JRと私鉄の違いではあるが、それらの駅は至近距離にあり、ニアミスしていた。

それにしてもあんな近い地域で、、、。
あのJRの路線は、その日は、前回の事故から1日あけて、なんと3日目、らしい。
毎日連続ではないものの、1日置き。
何かに呼ばれたのか?
作業をする係の方々、仕事とは言え、慣れているといっても酷暑の中、ご苦労様である。
事故当人に対して「被害者」という表現が使われていたものもあったが、被害者は本人以外の人々、乗客、乗員の皆さまではないのだろうか。
とっさの魔の瞬間に襲われると、じっくり色々考え慎重に行動するわけではないと思われるけれど。
背景はおそらく同情の余地のあるものだと想像できるので、遺されたご遺族のこともあるし、うかつなことは言えない。
(電車が動かず大変な目に遭った一昨日から時間が経つと)、皆さんの傷が癒えることを願うばかりだ。


弱肉強食の世の中、強い人も弱い人もいる。
互助、助け合ったり、共存共栄したり。
健康な人や病気の人、ハンディのある人、ない人、優秀な人、普通の人、凶暴な人、素行の良い人、悪い人、成功をおさめる人、犯罪を犯す人、被害に遭う人、恵まれている人、恵まれてない人、運がいい人、悪い人、努力する人、しない人、メンタルが強い人、
弱い人、、、
努力の度合いが違うこともある。
災害に見舞われたりすると、努力がどうとか言えない無力感に襲われると想像する。
全部まとめて色んな人が混じって同じところで生活しているとするとカオス、混沌となる。
長い目で見ると人々の思いや行動は蓄積され、同じような人が集まる傾向があり、層を作る。

こころに関しては、昨今は、とびきりナイーブな問題となっている。
スパルタ教育は、横並び教育、ゆとり教育に移り、体罰、しごきなどは教育において学校では許されない種牙推介
自衛隊や警察などでは厳しい訓練が行われているようだが、身内や知人にそういう関係者がいないわたしが直接、実態を垣間見ることはできない)
軍国主義だった時代や、さらに過去に遡り、封建時代などとは当然隔世の感がある。
今はインターネットの時代でもあり、時代はものすごいスピードで進んでいる。
この現代に思想については自由かと思いきや、そうではないことを知ると驚愕する。
たんに頭の中で考えるだけだったり、仲間と話し合ったり、考えを公開したり、情報交換したりするだけなら罪にはならないようだが、実際に行動に移すとなると、行動の内容によっては犯罪になる。
たとえ純粋な民主化運動であっても、国によっては国家反逆罪となり、若い命が奪われる。

今回の阿部さんの事件で国中で、さすがに衝撃を受けて揺れた。
しかし、あれが、襲撃されたのが演説中の阿部さんではなく、アパートに住む隣の無職の高齢住民同士の事件だとしたら、、、?
あるいは、勤務先の名もない元同僚、元上司だとしたら、、、?
原因や背景を深く追求されることもなく、忘れ去られる日常の多くのよくある事件の一つになったかも知れない超聲波掃描
もちろん、阿部さんの事件を肯定する気持ちも擁護する考えも全くない。
志し途中、凶弾に倒れた阿部さんに、こころからご冥福をお祈りする気持ちには変わりない。
だが、ターゲット、タイミングとしては、犯人はそこまで意図しなかったかも知れないが、最大の影響を与えた。
社会の目に見えにくい綻び、ほつれが一気に浮上したかたちになった。

り疲労感漂うボディランゲ

昨日、体育館のあるスポーツセンターに行った。
一度、そのセンターには人に連れて行ってもらったことがある。

今度は、別の人を連れて行く案内人として、わたしがナビゲーター役をした。

スポーツセンター近くまでは、覚えている。
でも、さらにぐっと近く、至近距離になると、記憶が曖昧になる聖誕佈置

えっと~???たしか、このあたりで、曲がったような???でも、次の筋だったかなあ???

自分だけならいいが、人を導くとなると、間違えてはいけないというプレッシャーが、のしかかる。

確実路線を取り、ぐるり大回り、スポーツセンタ周辺を約一周したところ、
お連れした人に、「えらく遠いんですねえ」と、素直な感想のなかに、げんなり疲労感漂うボディランゲージを読み取った。
弱ったなあ???と思いつつ、
目立たないものの、ちょこんと貼ってある「→スポーツセンター」の小さな標識を見つけ、
おお、間違ってはいなかった???と、ほっとした??が、????。

その一角にあるであろうセンターが、見つからない。
→矢印に沿って、ぐるぐる回る。
ぐるぐる、延々とぐるぐる、いつまでも、ぐるぐる、は、わたしの得意技だ。

だんだん、お連れさんが、わたしではラチがあかないと判断したようで、
通行人に「スポーツセンター、どこですか?」と聞き始めだした訂造雨傘

連れて行った人に聞かれては、わたしの沽券にかかわる(そんなもの、あるのか? Too small)
わたしも負けじと、広場に面して立っている建物から出てきた年配の男性に、尋ねた。
「スポーツセンター、どこですか?」(にっこり笑顔)
「さぁ~。知らんねえ」(浮かない顔)
と、おじさん。

近いはずなんだけどなあ???

次に広場のど真ん中にある駐輪場に、とめていた自転車を取りに来ている女性に聞いてみた。
自転車に乗り、地元の駐輪場を利用しているのだから、近隣?地元住民であることは、間違いない。
「スポーツセンター、どこですか?」(この人なら、絶対、知っている。自信満々)
彼女の反応は???
「さぁ~???知りませんねぇ???」

(なに? このおばさん、???
わたしが、知らないと答えているのに、「そんなはずないでしょ?」みたいな不満そうな顔して詰め寄ってきて)
彼女の顔に、そう書いてあった(ような気がした)。


え~、ふたりとも知らないとなると、お連れさんが尋ねていた人を含めて3人の人が、知らないと答えたわけだ。
そんな知名度の低い場所なのか。
行政の運営する、市民のためのセンターなのに、地元の人に、これほどまで浸透していないとは。
この認知度の低さ。
行政がPRを怠っているのか、地元住民の意識が低いのか、余裕がないのか。
(逆切れモードにスイッチが入る)

近隣の人でも知らないような場所に、遠くから来たわたしが、お連れさんを無事に案内、到達することができるだろうか。
なかば、がっかり、肩を落としたわたし。
彼女の、ここまで来た時間、労力、交通費、店で食べる時間を惜しんでコンビ二で買って準備した食品?お茶、
なによりも、自分だけならまだしも、
その日、彼女の後半のスケジュールを無駄にしてしまったとしたら、とても責任を感じる。

なにがなんでも、探さねば???と、やる気まんまんで、パリで迷子になったかのごとく、自主的にパワーがあふれ出た。
自転車の女性に聞いた直後、即座に、カラダの位置を90度回転し、目の前の建物を見た。
なんのさえぎるものもなく、ほんとうに、ほんとうに、目の前、まん前。

すると、その建物に掲げられている、「スポーツセンター」という表記が目に入った空氣淨化抽濕機

健康が目減りしてしまい

半世紀以上生きてくると、だいたい自分の人生はどんなものか想像がつく。
過去を振り返り、現在を見て、さらに未来を予測するbb牛奶敏感
そう大きなどんでん返しはないはずだ。
予想通り、何もなければ、大大大大満足である。
予測できないような大惨事に見舞われたとしたら、それは想定外なので仕方ない。
予期できないことのために、備えよと言われても、、、。
せいぜい、最低限の災害グッズを備えるぐらいか。
病気にならないために過度な気配りや心配をすると、せっかく現在健康なのに、健康が目減りしてしまいそうだ。
健康オタクというらしい。
歳がいくと、あちこちガタが来るのは当たり前なのだから、受け止めるしか手がない。
へんに回避するための奇抜な方法や努力を取り入れ、ストレスを溜めるぐらいなら、普通に病気になったほうがマシ。

わたしは、自分の人生はほぼほぼ終わっていると思う。
あとは、字の如く、余生。
余った生BB無便便
余りは、楽で楽しくて解放されて、この上なく幸せ、充実していると感じる。
それは、今までの人生を肯定しているからである。

元々、出世欲ゼロ、偉くなりたい気持ちゼロ。
世の中に認めてもらいたいという気持ちはなかった。
今は、自分の好きなことをしているのが最高にご機嫌。
とは言え、既存レベルを維持するにはある程度の努力が必要である。
何もしないで全てを他人に依存は、ムシが良い。

既存レベルを少し下げるのか、少し上げるのか、徐々に下げるのか、徐々に上げるのか、そのままで推移するのか。
少しの幅は、自然の成り行きだ。
向上心ある人は頑張れば良い。
欲の無い人はそれなりで良い。
なんでも良い。
自分が良いと思えば。
人にどうこう思ってもらおうとすると、ややこしい。

必要以上に、人に迷惑をかけたくないと思う人がいるようだ。
必要以上に思う必要はない。
全く思わず、ふてぶてしい人には怒りを感じるが、少しだけ、すみませんねー、と自覚すればよいのでは。
小さな迷惑は、小さな支え合い。
小さな依存で、皆んな、社会は成り立つ。
大きすぎる迷惑の場合は、命にかかわりそうなら、丸投げもありだろう。
命まで取られそうな案件は、自分一人では処理できないBB轉奶粉